高崎だるまとは
丹精込めて伝統的なだるまづくりを行っております
生地作りから着色、顔描きに至るまで、50年以上の経験を誇るベテランの職人が、一つひとつ丹精込めて手掛けてまいります。油性のラッカーを塗るため、光沢があり、変色の恐れが少ない美しい仕上がりを実現できます。
高崎だるまとは
高崎だるまとは
形全体が丸みを帯びて、ふくよかな感じのする高崎だるま。その特徴は、眉毛は鶴、髭は亀を表現しています。日本では「鶴は千年、亀は万年」と言われ、吉祥・長寿の動物に例えられます。その縁起の良さから昔から高崎だるまは多くの人に親しまれてきました。
お腹には「福入」、両肩には「家内安全、商売繁盛、大願成就、目標達成」などの願いを込めて金文字が書かれています。文字が書かれているだるまは全国的に見ても珍しいものです。
また、「七転び八起き」と言われ、いくら転がしてもすぐに起き上がります。重心が安定した形は心の持ち方を示し、どんな困難にも対処できる落ち着いた心と忍耐力を表しています。
地域団体商標登録
地域名と商品名からなる商標がより早い段階で商標登録を受けられるようにすることにより、地域ブランドの育成に資するため、平成18年より「地域団体商標制度」がスタートしました。
当組合でも、「高崎だるま」の名称で商標登録することになり、平成18年に「商標登録第5003697号」として登録されました。
群馬県指定「ふるさと伝統工芸品」
「ふるさと伝統工芸品」とは、平成5年9月6日に制定した「群馬県ふるさと伝統工芸品指定要綱」に基づき群馬県知事が指定するものです。
「高崎だるま」は、「諸工芸品」の分類にて平成5年に指定されています。
七転び八起き、開運・福だるまの200年
群馬県高崎市豊岡・八幡地域を中心に、張り子のだるまづくりが始まったのは、今から200年以上も前のこと。「眉毛は鶴、鼻から口ヒゲは亀」縁起の良い二つの動物をお顔に表現した高崎だるま。別名「福だるま」「縁起だるま」とも呼ばれています。
上州(群馬県)は昔から、養蚕が盛んな地域。蚕は繭を作るまでに4回脱皮しますが、蚕が古い殻を割って出てくることを「起きる」といいます。 その言葉にかけて、養蚕農家では七転び八起きのだるまを大切な守り神として、奉り続けてきたのです。
また、上州は昔から、だるまづくりにとても適した土地と言われてきました。紙を張る、色を塗る・・・そんな一つひとつの行程の中で、上州名物からっ風と乾いた空気が、大きな威力を発揮するのです。まさに、高崎だるまは、職人の技と上州の風土が生み出した芸術作品といえるでしょう。
年間約90万個(平成 年 組合調査)のだるまを出荷し、その数は全国の張り子だるまの大多数を占めると言われる高崎だるま。今日も多くの職人たちが、人々に幸せをもたらす福だるまを、一つひとつ心を込めて作り続けています。
だるまができるまで
1.生地づくり
現在は真空成形という方法が中心です。紙を溶かした水槽にだるまの型を入れ、水分をコンプレッサーで吸い出し、固まったら取り出して天日乾燥させます。 これで一気に生地ができあがります。だるまの底にはヘッタとよばれるおもりをつけ、「起き上がり小法師」と同様に倒しても自分で起き上がる機能を持たせます。
2.着色
3.顔描き
群馬県達磨製造協同組合より
そうだったんだ高崎だるま
高崎のだるまは、旧豊岡村が1955年に高崎市と合併するまでのおよそ140年の間、豊岡だるまと呼ばれていました。現在は「高崎だるま」として商標登録を行い、全国にその名が知られています。
高崎だるまの歴史
高崎のだるま作りは、今から二百十数年前、豊岡村の山縣友五郎が始めたとされています。
稲の収穫や麦蒔きが終わった、秋から翌年の春にかけて作られていましたが、友五郎が始めたころは、色塗りに使う材料が簡単に手に入らないなどの理由で、生産量は少なかったようです。1859年の横浜港の開港で、だるまの生産が盛んになっていきます。海外からスカーレットという赤の顔料が輸入されるようになったからです。
徐々にだるまの作り手が増えていき、1909年ころには18軒になりました。現在では72人の職人が伝統を継承しています。
病気除けとしてのだるま
鮮やかな赤色が印象的な、高崎市民になじみ深いだるま。
だるまの広まりは、江戸で疱瘡(天然痘)という病気が流行したことに由来します。当時の庶民は病を恐れ、しばしば願掛けを行っていました。赤いものが邪気を払うと信じられていたため、赤く塗られただるまが疱瘡除けとして求められるようになりました。流行時には、子どもの枕元などに置かれていたと言われています。
その後、疱瘡の予防法が発見されたことで、江戸のだるまは姿を消していきました。
貴重な資料の発見
近年、「高崎談図抄」という文政十二(1829)年の文献に、だるまに関わる記載があることが分かりました。田町の市で、だるまを売る様子が版画と文章で残されていたのです。まちなかで、だるま市のルーツともいえる動きが始まっていたことが分かる貴重な資料です。
当時の田町では、毎月5日と10日をゴトオビと言い、月6回の市・六斎市が開かれていました。「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と謡われたほどにぎわっていました。六斎市の中でも、正月の10日を初市と呼び、市の神様を祭り、まちを挙げて祭りに沸いたようです。
高崎談図抄には、この初市の風景が描かれ、市の神様の前にだるまを売る店が出て、人々が買い求めている様子が見て取れます。今でも続いていれば、県内で最も歴史あるだるま市になっていたのかもしれません。
木型に見る高崎だるまの変遷
高崎だるまの昔ながらの制作方法は、木型に紙を重ねて貼り、乾いたら型から抜く「張り子」と呼ばれる手法です。
本市が全国でも類を見ないだるま職人の町となったのには、ある一人の型彫りの名人の存在があります。
元金沢藩士の葦名鉄十郎盛幸がその人です。皆から「だるまの型彫り鉄つぁん」と呼ばれていました。
初期の頃は、顔の下の部分に棒のような衣線が彫られていました。横浜港の開港で、シルクの輸出が盛んになると、養蚕業も全国的に広がっていきます。鉄十郎は繭の形にこだわる人たちの声を参考に丸みを帯びた型を作りました。
そして、縁起の良い「福入」の文字が書けるように、衣線の間隔を少し開けました。この型が踏襲され、現在の高崎だるまに至っています。